映画「世界の中心で愛をさけぶ」
昨日見た。予想よりつまらなかった。ポイントは以下。
- 朔の印象が、俺の想像と合わない
- 亜紀も若干印象と違う
- 基本的に演技力が・・・・
( ̄-  ̄ ) ンー、色々他にもあるのだが、長くなりそうなのでやめておく。
つまりは「自分の想像している「セカチュー」を超える映画はない」ということだ。大抵どんな作品もそうなのだが、先に小説(原作)を読んで映画を見ると落胆することが多い。大抵の人はそうなのかな?
「セカチュー」は朔と亜紀の物語でもあるが、一方で朔とおじいちゃんとのやり取りも見逃せないと思う。
この二人のやり取りは小説を読む上で楽しんだ部分のひとつだ。朔はおじいちゃんを信頼し、おじいちゃんも朔を信頼していたのであろうと感じた。
俺にとって信頼している人は誰だろう・・・?両親という意見もあるあろうが、俺にとって母方の伯父ははずせない。
まだ中学生のころ、おふくろと祖母は俺によく言った。「よしかず(伯父の名前)に後姿がそっくり」と。祖母は何度か伯父の名前で俺を呼んだほどだ。そうなるともちろん気になってくる。「どんな人だろう?」と。
初めて会ったのが何時だったか忘れてしまったが(ヾ(--;)ぉぃぉぃ)、第一印象は「俺と同じタイプの人だ」と思った。理由を書くと長くなるので割愛するがとりあえずそう感じた。
それからことあるごとに、連絡をくれ、いろんなことを話した。伯父も数学を専攻したこともあり、俺が大学のころはそういった話題で花がさいた。
大学を卒業するころ、伯父がこれは大切だと教えてくれたことがある。
「中庸を知れ」
そのときに初めて、「中庸」という言葉を知ったのだが、どうやらこういうことだったらしい。
数学をやっている人(こういうくくりだと非難されるかもしれないが、お許しあれ)は、0か1でしか物事を見れなくなる。でも世の中には中間であることの方が多い。自分の我を強要することなく、その中間を読み取れる人間になってほしい、とそういった意味があったのであろう。
俺はその言葉を守られているだろうか?